スリークッションでも
アーティスティックビリヤードでも
優勝経験のあるキャロムのトッププロ、
界敦康(さかい・のぶやす。JPBF)。
日本ビリヤード界きっての
マルチプレイヤーである界の原点は、
16歳の時に訪れた地元・愛知の
ビリヤード場。
初体験はポケットビリヤードだった。
取材・写真・文/B.D.
――ビリヤード初体験はいつでしたか?
「16歳、高1の時です。球撞きを少しやってた友達に、『一緒に行こう』と誘われたのがきっかけです」
――出身は愛知でしたね。
「はい、名古屋市です。家の近くの『シカゴクラブ』という店に行きました。そこは今、『fat cat』という名前になっています」
――誘われた時、どうでしたか?
「『面白そう』と思った気がします。僕が小学生の頃、NHKでビリヤード教室を放送してたんですよ。小林伸明先生や町田正プロ(共にJPBF)が出ていた番組で、観ていて興味があったんです」
※小林伸明プロは3C世界チャンピオン(1974&1984)
※町田正プロは3C、アーティスティック、バンドゲームなどキャロムのあらゆる種目で優勝・入賞多数のオールラウンダー
――初めてのビリヤード。何をしましたか?
「ナインボールをやったはずです。まあまあ最初から球が入って、すぐ『面白い』と思って」
――日を空けずにまた行った?
「そう。数日後に行って、上級者のマネして押し球と引き球をやった気がします。今考えると、花台(※上級者の常連向けのテーブル)で撞いているような人達を初めから観ていたなぁ」
――すぐに引き球まで。早いですね。
「ビリヤードを始めてすぐに教則本を買ったんですよ、それで『手球の下を撞くと引けるのか』ということがわかって、『やるぞ、引き球!』と」
――引けました?
「結構引けたんですよね、最初っから(笑)」
――天性のキュー切れの持ち主でしたか(笑)。当時と今とではフォームやストロークは違いますか?
「全然違います。昔の写真を観るといかにもポケットビリヤードの構え。頭の位置が低くて、右肘がピンッと立っていて。そこからだいぶ変わりましたね」
――競技志向になるまでは早かったですか?
「早かったなぁ。ほんと初体験の数日後だったんじゃないかな。お店のマスターが、『一緒に撞こう』と誘ってくれたんですよ。ナインボールをしたらマスワリ4連発されて。それで『これが本当のビリヤードか! 面白い!』と」
――それは衝撃的ですね。
「そこからですね。センターショットやボウラードを無限にやるようになったのは(笑)。練習、好きでしたね」
――お話を聞いていると、上達しやすい環境だったようですね。
「付近に大学が多く、上手い学生がいっぱいいるお店でした。ハタチそこそこでA級なんて人も多くて、よく教えてもらってました」
――学業の方は?
「高校はなんとかギリギリで卒業(笑)。クラスメートは知ってましたね。『界がいないなら球屋だ』と(笑)」
――(笑)プロになるということは?
「全く考えてませんでした。というより、18歳でA級になって、ある程度『やった感』があったんです。ただ入れ倒してただけですが」
――でも、愛知って強いプレイヤーが多いですよね。そこで18歳でA級というのはなかなかの強者かと。
「今もそうだと思いますが、確かにあの頃の愛知のレベルは高かったと思います。当時はまだ、JPBAの所勘治プロや星勝士プロがアマチュアで。あと、高木まき子プロと撞いたこともあります。僕はちゃんとしたタイトルは獲ってないんですが、3年でそこそこ撞けるAクラスにはなれたかな、と」
――それでスリークッション(3C)へ?
「実はシカゴクラブには、古い3Cテーブルが1台だけあったんですよ。ヒーターも無いような台でしたけど。ポケットのB級だった17歳の頃から、遊びでたまにやってたんです」
――その時は何点選手でしたか?
「6点とか8点とか(笑)。でも、これも本を見て、『このクッションシステムで狙うのかな?』とか計算もしてりして、楽しくやってました」
――どのように本格的なキャロム選手になったのでしょう?
「だんだん3Cが面白くなってきたので、『東京で腕を磨こう』と考えて高校卒業後に上京したんです」
――誰か頼れるあてがあったんですか?
「いや、特にはなかったんですが、目黒に住んで色々な球屋を回ってました。で、行き着いた先が小林伸明先生の所(新大久保・『ビリヤード 小林』)。それ以来、先生には本当にお世話になりました」
――上京した頃の腕前は?
「16点だったかな? いや、驚きましたよ、東京に来て。それまで22点とか24点ぐらいの人が僕の中での最上級だったんですけど、30点オーバーがザラにいましたから(笑)」
――小林伸明プロと初めて撞いた時はお客さんとして?
「そうです。撞いてもらいたくてお店に伺って。僕が16点で先生が確か50点でした。先生、13キューで上がりです。もう衝撃的で」
――すごい……。
「これは僕の信条になりました。僕は今も、特に初めての方とプレーする時は全力で上がることを心掛けています。『3Cはこれだけ当たるものなんです』ということを見せたいですからね」
――ポケット、3Cときて、次の「初めて」がアーティスティックビリヤードですね。
「20歳ぐらいの時、町田プロのお店『チャンピオン』(東京・八王子市)に行ったら、町田プロがアーティスティックを撞いておられて、『面白そうだな』と。特にマッセの『ジョナサン』というショットが魅力的で」
――それですぐやるように?
「そこまで積極的ではなかったんですが、すぐ後にチャンピオンで勤務することになったので、もう自然な流れで(笑)。やはり町田プロのお店なので、アーティスティックが練習しやすい環境なんですよ」
――ポケット、3C、アーティスティック。全く異なる競技に思えるのですが、界プロはどう考えているのですか?
「ゲーム性が違うだけで、丸い球を撞くという基本は全て一緒だと考えています。そして、そのゲーム性の違いが個々の種目の面白さになっています」
――今はキャロムのプロとしてスリークッションに専念なさっていますが、ポケットビリヤードを撞くことは?
「ありますね、今でも。長い時間ではないですが」
――どの競技種目が一番好きなんですか?
「そういう順番は特にないですね。どれも好きですよ」
――最後に。2012年にビリヤード場のオーナーになりました。今の姿は10代の頃に想像できていましたか?
「いやぁ、全くですよ。球屋のオヤジだけはやることはないだろうって思ってましたから(笑)」
――そうだったんですね。
「僕が勤めていた『BIGBOX』(東京・高田馬場。2012年閉店)が、もしまだあったとしたら、ずっとあそこにいたでしょう。あそこで働いている時は、自分で店をやるなんて発想もなかった」
――では、なぜ?
「あそこがなくなるという時に、『やるなら今しかない』と思ってしまったというか(笑)。『年齢的にもやるなら今だろう』と」
――迷いもあったでしょうね。景気が良いとは言えないビリヤード業界ですから。
「正直、止められましたよ、奥さんにも先輩にも(笑)。『なにも今じゃなくても』と。でも、成功・失敗関係なく一度は挑戦したいと思ってしまいました」
――実際に約1年以上やってみて、どうですか?
「やっぱり大変でした(笑)。でも、お陰様でなんとかなってはいます。流されてこうなった、という言い方は変かもしれませんが、今は『球屋のオヤジになるのが自然な流れだったのかな』と思うことがありますね」
界敦康プロはこんな人→
日本撞球界きってのマルチプレイヤー。
2013年JPBFプロスリークッションランキング2位。
アーティスティック世界選手権3位
全日本アーティスティック選手権優勝多数
1974年8月29日生まれ。
愛知県出身&東京都在住 A型、乙女座。
JPBF(日本プロビリヤード連盟)1996年度入会。
所属・スポンサーは、
Sasaki Cue、斬タップ、Tiger Cue、MARS(笹塚)