〈BD〉ミスター・ハイランド、支配人の金本さんに聞いてみた

 

3月いっぱいで閉店する

横浜の老舗『ハイランド ビリヤード』。

 

同店で約30年勤務してきた、

「ミスター・ハイランド」、

 

金本和重(かねもと・かずしげ)さんに、

 

ハイランドの歴史や逸話、

そして、閉店を間近に控えての心境などを

うかがいました。

 

金本さんは4月下旬にオープン予定の

MECCAが運営する新店舗でも

勤務する予定です。

 

そういうこともあって、

「まだ実感がないんだよね(笑)」と

微笑みながらも、

貴重なエピソードを交えて語ってくださいました。

 

…………

 

金本和重さん

61歳

ハイランド ビリヤード支配人

元KPBA所属

 

 

――元々、このハイランドビルはボウリングのために建てられたと聞きました。

 

「はい、ボウリングブームを受けてハイランドビルができたのが1971年(昭和46年)。その頃、僕はまだここで働いてないから詳しいことはわからないんだけど、1975年頃には5Fに四ツ球台が置かれてたんじゃないかと思います。僕が初めてハイランドにお客さんとして遊びに来たのが1983年頃かな。ボウリングをやりに(笑)。その時、ビリヤードはしなかったけど、四ツ球台があったはずです」

 

――金本さんがハイランドに入ったのは?

 

「1988年(昭和63年)。それまでコックをやっていて、辞めてちょっとぶらぶらしてました。ビリヤードは好きで連盟(KPBA)にも入っていて、KPBAの人がハイランドを紹介してくれたの。最初はインストラクターで入ったんだけど、生活を安定させたかったから社員にしてもらって。ハイランドという会社はボウリングやサウナをやっていたけど、僕はずっとビリヤード部門で29年目。このフロアでカラオケとか色々とやったこともあるけど、基本的にはビリヤード一筋です」

 

――金本さんがハイランドに入った時のビリヤードの状況は?

 

「僕が入る2年前くらい前にあのおっきなビリヤードブーム(※1986年公開の映画『ハスラー2』に端を発するブーム)があったので、ビリヤードを4Fに移してどーんと広げてました。26台くらいあって、テーブルは全部『Murrey』(マレー)。ブランズウィックなんてまだなかった。四ツ球も2、3台置いてました。ちなみに、それまで4Fはボウリングでね。だからああいう段差のあるフロア構造になってるんですよ。

 

 でも、26台だった時期は短くて、翌1989年(平成元年)にフロアの半分ぐらいをカラオケに変えました。カラオケの急成長期で、テーブルを14台に減らしてカラオケを入れたんだけど、売上は半端なく良かったです。あの時の14台っていうのが、その後、何度か台数やレイアウトは変わったけど、最小台数です。ブームを過ぎた1990年頃(平成2年)のビリヤードは悲惨で、土日でも埋まらなかった。あの頃、カラオケに変わったビリヤード場が多かったなぁ」

 

――ハイランドと言えば歴史あるウィークリートーナメント(「1413回」で歴史に幕)が特徴ですが。

 

「僕が入った1988年からずっとやってますね。始めたのは僕じゃないんですが、今の形にしたのは僕。最初は店の常連しか出てなかったんですが、色々な人を誘ったり、他店に顔を出したりして、参加人数を増やしていきました。当時のハイランドには上手い人はほぼ全くいなくて、知名度も全然なかった。ちょうどカラオケが流行りだしてビリヤードがダメになってきた時期だったから、危機感を持ってウィークリーを続けてましたね」

 

――その後、お客さんがよく入った時代とは?

 

「ちょうど15年くらい前(2000年頃)のちょっとしたブームの時かな。『バグース』さんが渋谷に一号店を出したりした頃で、ウチの近くに『サンビリ』(※既に閉店)ができる前の頃。21台あったんだけど、待ち客のない日がなかった。平日でも必ず待ちがあったし、土日は今の4倍近くお客さんが入ってました。まだパック料金とかがなかった頃だけど、皆ホントによく撞いてましたね。でも、そうなると世の常でお店が増えて、価格競争をしてお客さんを取り合うことになっちゃうんですけどね(苦笑)」

 

――記憶に残るエピソードや人というのは?

 

「ここに勤め始めた頃は、高いレベルで撞けるお客さんが全然いなかったので、ウィークリーでも平場でも、撞けるお客さんに来てもらわなきゃダメだって思ったんですよ。それでKPBAのツテを辿ったりよそに行ったり他店で撞いたりして、輪を広げていきました。そんな時に知り合ったのが銘苅(朝樹。現MECCA代表)です。他の人とは違う洗練された球を撞いていて衝撃を受けましたね。当時21歳ぐらいで既にSAでした。で、銘苅もハイランドに来てくれるようになったんです。あとは、中学時代のヤンチャな逸野暢晃(JPBA)とか、日本に来たばかりの羅立文(JPBA)とか、懐かしい思い出はいっぱいありますよ。

 

 土地柄、外国人のお客さんはいつの時代も多かったね。フィリピンの有名選手は全員一度以上は来たんじゃないかな。普通のフィリピン人もよくいたし、イラン人、タイ人、中国人……。夜の時間、お客さんの7割くらい外国人だったこともありました。

 

 有名選手だけでなく、ここでビリヤードに出会って、ここでハウスキューからスタートして、ここでハマって10年、20年って撞き続けてるお客さんが結構いるので、そういう方々が上達していく様は見ていて嬉しかったですし、よく覚えてます」

 

――閉店が決まった時に感じたことは?

 

「正直な言い方すると『遂に来たな』と。ビリヤードフロアではなくて、ハイランド本体の経営状況であるとか、建物の老朽化というのは多少なりともわかっていたところがあるので。

 

 これは最終営業日を迎えてみないとわからないけれど、今のところ寂しさみたいなものはないです。僕も新店舗で働くことになっていますし、今は実感がない。でも、もし新店舗の予定がなかったらだいぶ違ったと思います。ここに通ってくれてたお客さんの行き場が完全になくなるっていう状況だったら、僕らお店側の人間も胸が苦しくなったと思うし……。

 

 そして、ビリヤードに携わってきた身としては、ビリヤード場がどんどん減っていく時代に、ハイランドも閉まってしまうというのはインパクトのあることなのかなって思います。こればっかりは自分の力ではどうしようもないことなんですが」

 

――これまでハイランドに通ってくれたお客さんに一言いただけますか。

 

「ハイランドがなくなっても新店舗があるし、お客さんには変わらずにビリヤードを続けてほしいと願っています。同じ趣味の人同士で集まって、息抜きをしたり、コミュニケーションする場所として、ビリヤード場は本当に素晴らしい空間だと思うんです。皆さんにとってハイランドがそういう場だったとしたら嬉しいです。今、銘苅を始めMECCAのスタッフが新店舗の準備で忙しくしていますが、そんなに間隔を空けずにオープンする予定なので、ぜひ新店舗に撞きに来てください。そして、ハイランドに来てくれた皆さん、これまで本当にありがとうございました」

 

(了)

 

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