〈BD〉「追悼 デニス・ディックマン」――Detective K season 3 extra episode R.I.P. Dennis Dickman

 

私はDetective K。

ビリヤードキューの調査を引き受ける探偵だ。

 

周囲からは”K”と呼ばれている。

 

夏は引き続きヒマだ。

 

今年は酷暑で、キューケースを担いで

外に出るのは、身体にもキューにも良くない。

事務所に引きこもるのが一番だな。

 

バンッ!!

 

いきなりドアが開いた。

 

うぉっと!

そこに立っていたのは、酔爺(ようじぃ)

 

唐突な登場だが、実は旧知の仲。

 

しかし、尋常ならぬ表情。

そして足元にはケース入り瓶ビール20本。

 

『今日は呑む』

 

それはいつものこと……。

 

『デニス・ディックマンが亡くなった』

 

なんだって!

あの怪人、ディックマンが?

 

『よって供養のため、大いに呑みかつ語り合おう』

 

わかった。

 

日本では知る人ぞ知る存在だったが、

実はキューの歴史における重要人物。

 

我々は彼を弔わなければならん。

この際、BDが何と感じようが関係ない。

 

オレはキュー探偵K。

その依頼、引き受けた。

 

※デニス・ディックマンは7月27日に逝去

 

*****

 

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デニス・ディックマンは

1947年、ミシガン州生まれ。

 

ミシガン州立大学に1965年に入学。

1968年から1970年までベトナム戦争に従軍。

 

除隊後復学した彼は、

カール・コンロン(※)という人物から

スリークッションを習った。

 

(※註:カール・コンロンは、

ビジネスマンとして1970年代から

1980年代にかけて日本に駐在。

スリークッションをプレーし、

「カールさん」の愛称で親しまれた。

彼は日本のアダムに『CCS』

〈カール・コンロン・スペシャル〉

というキューシリーズを発注し、

アメリカで販売したり、

キャロムビリヤードの歴史研究をしたりと、

日米の懸け橋的存在だった)

 

その後ディックマンは、世界各地を放浪しつつ、

キャロムビリヤードをプレー。

 

1979年に故郷のミシガン州に戻り、

ゴルフインストラクターとして働く傍ら、

キューメーカーとして製作開始。

 

映画『ハスラー2』ブームに流されることなく、

キャロム用のキューをメインに製作。

 

1990年代に入ると、

キューメーカー同士の連帯を図るべく、

『アメリカン・キューメーカーズ・

アソシエーション』(ACA)の設立に関与。

 

しかし、考え方の相違からすぐ脱退。

 

更には、月刊誌『ナショナル・

ビリヤード・エクスチェンジ』創刊、

キュー製作を個人指導する

「キュー大学」開設など、キュー製作を

普及させるための幅広い活動で知られた。

 

「タケノコハギ」で一世を風靡した

キューメーカー、デイブ・バレンブルーギー、

 

そして、プレデター『314シャフト』の

開発に取り組んだスティーブ・タイタスも

ディックマンの教え子だった。

 

*****

 

"K"が所有するディックマンキュー
"K"が所有するディックマンキュー

 

K:酔爺とデニス・ディックマンとのつながりはいつ頃、どういうきっかけで?

:1997年だか1998年だか、カール・コンロンさんが亡くなり、その遺品のビリヤード用品をデニスがオークションすると知って、連絡したのが最初だ。

K:カールさんに会ったことはないが、高田馬場の『ビッグボックス』(※閉店)でよく撞いていたそうだな。

:アマチュアであったが、交友関係は広かったらしい。

K:当時アダムの社長は、ディック・ヘルムステッターだったから、アメリカ人つながりでCCSも作らせたのだろうな。

:ま、そうだろう。で、落札した品を受け取るため、ミシガン州のデニスの家に行ったのが最初だ。

K:で、泊めてもらったと。

:そう。カールさんが試合で入賞した時の賞状が、日本語が読めずに上下逆に飾ってあった。それを直したのはオレだ。

K:かつては小森純一プロ(※故人)を自宅に泊めたことがあると、オレがデニスに初めて会った1995年の『BCAトレードエキスポ』で聞かされた。小森プロが寝たのを見計らってキューを持ち出し、シャフトのテーパーを計測したと言っていた。

:デニスのやりそうなことだな。

K:当時彼が主宰していた月刊誌『First National Billiard Exchange』には、”Cue Talk”というコラムがあり、キュー製作のノウハウを公開するだけでなく、よくグダグダ話に逸れていた。オレが最も影響を受けたテキストだ。

:キュー製作の解説書『From Tree To Cue』を執筆していたしな。

K:今もそれ持っている?

:行方不明(苦笑)。

 

*****

 

K:そして我々が、”期待外れなキューを買ってしまった時の落胆”を表す単位、「ディックマン」を作ったのは……。

:確か2000年だったかな。デニスにキューを注文する際、Kに共同購入を持ち掛けた時だ。

K:ストックのキューがあるからと、言われるままに送金して送られてきたのが……。

:2本ともひどいシロモノだった。その衝撃を「1ディックマン」と定義した訳だ。

K:未だにあれを超えるキューはない。

:ない。まぁ、1ディックマン未満ならばその後何本か……(以下略)。

K:とはいえ、お互い未だに持っている(笑)。

:「1ディックマン」の標準原器だから、手放せない。

 

*****

 

"酔爺"が所有するディックマンキュー
"酔爺"が所有するディックマンキュー

 

K:デニスはアメリカにおける、スリークッションの存続には力を入れていた。

:2003年にラスベガスで行われた、『スリークッションワールドカップ』にも関わっていたな。

K:デイブ・バレンブルーギーを紹介されたのもその頃だ。

:「不肖の弟子だが、良かったらキューを見てやってくれ」と言われたが、弟子の作品が師匠のモノより上出来だった(笑)。

K:弟子のキューはためらわず買えたぞ(苦笑)。その後、ディックマンは『スーパービリヤードエキスポ』(SBE)で会うたびに、ルックスが変わっていった。

:ブースを構えていても、キューを売るというよりは会場内をフラフラしていた。

K:2013年には引退を宣言し、一切合切を売り払った後も毎年エキスポには来ていた。

:皆から愛されるキャラで、人気者だけに惜しまれるな。

K:その通り。寂しいぜ。 

 

*****

 

 

デニス・ディックマンは

「キューは作る(make)のではなく、

造る(build)もの」と規定し、

“キュービルダー”と自称していた。

 

その思想をよく表す「掟」を最後に紹介して、

供養としたい。

 

ディックマンのキュー造りの掟:

 

1 我慢して我慢して、時にはさらに我慢を重ねること。

 

2 キューを造るため、今の仕事を辞めないこと。

 

3 掟その1を破ると、余計な仕事が必ず増えると知ること。

 

4 ふだんは必要ないものを持っている方が、必要なとき持っていないよりましであると知ること。

 

5 とは言え、必要以上に大きく、重く、錆だらけの工作機械は、もし使えなかったら自分の居場所が無くなるので、買わないこと。

 

6 たとえ自分の母親であっても、支払いが完全に済むまでは出来上がったキューを渡さないこと。

 

7 キュー造り禅問答……木材と工作機械を購入する前に今一度落ち着いて、できれば親しい人と一緒に以下の質問を自問自答すること。

 

どのような種類のキューを造りたいのか?

どのような方法で造りたいのか?

誰のために造りたいのか?

どこで造りたいのか?

なぜ造りたいのか?

いつ造りたいのか?

 

 

*****

 

もし新たな依頼があれば調べるぜ。

よろしくな、BD!

 

(to be continued…)

 

Detective “K”についてはこちら

 

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