発症率10万分の3。生存率2/5。
あとあと聞いてみると、
極めて珍しく、
そして重篤な病だったことがわかる。
2015年秋に倒れた西嶋大策は、
リハビリを経て、
2016年春に奇跡的な復活優勝を遂げ、
初夏には念願だった13年ぶりの
『ジャパンオープン』特設会場行きを決めた。
「本当は2015年いっぱいで
ビリヤードを辞めるつもりだった」
そう明かしてくれた西嶋は、
今日もキューを握っている。
身体は未だに万全ではない。
しかし、その姿は
心なしか以前よりも楽しそうだ。
この1年を振り返ってみた。
写真・取材・文:BD
取材協力:MECCA Yokohama
…………
Daisaku Nishijima
JPBA37期生
1976年1月8日生 東京都出身
アマ時代の2003年に『ジャパンオープン』優勝
『グランプリイースト』では優勝通算6回
2011年『四国9ボールフェスティバル』優勝
他、優勝入賞多数
使用キューはADAM JAPAN
MECCA所属
――3ヶ月前の話になりますが、『ジャパンオープン』(7月)で特設会場行きを決めた時、「13年ぶり。優勝した時以来だよ!」と興奮気味に語ってましたね。
「2日目の最終戦(ベスト32)に勝った時はめっちゃ嬉しかったです。ニューピアホールに行きたかったし、仲の良いヨシくん(北谷好宏)と、所属が一緒の(照屋)勝司も特設行きを決めたこともあって、とにかく嬉しかった」
――特設行きをはっきりと目標にしていたんですか?
「ニューピアはずっと目標でした。やっぱりもう一度選手としてあそこに立ちたいというのは常に思っていたし、今の自分がどのぐらい戦えるのか、あそこで試合をしてみたいと思ってました」
――そうだったんですか。
「でも、面白いもので、翌日『ニューピアホール』に入ってみた時の素直な気持ちは、『こんなに狭い会場だったっけ?』(笑)」
――西嶋プロと言えば、やっぱり2003年大会ですよね。当時アマチュアで優勝して、今に至るまでそれがキャッチフレーズになっている。重荷に感じてなかったですか?
「多少は感じてましたよ。だから、僕の10年後、(土方)隼斗が優勝した時はすごく嬉しかった」
――13年ぶりの特設会場の初戦は緊張しました?
「それが全くしなくて(笑)。だから、素でああなっちゃってたんですよ(A・リニングに1-9で敗戦)。あれはもう第1ゲームが全て。相手がリニングだから、完璧なセーフティを仕掛けようとしたら、何の事はない、ダダ見えのコンビを残してしまったという。とにかくテーブルが難しかったです」
――球の話もしたいと思ってたんです。4月の『グランプリイースト第2戦』で優勝した時に、『ビリヤードの映像を観るのが楽しくて』と言ってましたね。具体的には誰の動画を観てるんですか?
「今は張玉龍(台湾)しか観てない。彼は世界でも3本の指に入るぐらいのテクニシャンだと思ってます。『これ、誰が勝てるんだろう?』と思う。『全日本選手権』で当たったことがあるんですけど、台湾人にしては珍しく、朝イチからでもむちゃくちゃ入れてくるなと思いました」
――いいですよね、張玉龍。
「うん。例えば、S・V・ボーニングなんかもすごいと思うけど、体格も違うから真似しようと思わないし……。あと、フィリピン人のプレーもそこそこ観てましたよ。イグナシオも観たけど、でも、彼はなんかちょっと違うかなぁと」
――日本選手は?
「動画は観てないけど、ヨシくんのビリヤードは好きです。海外選手が持ってるようなパワーを感じさせるプロだと思います。いつかポケットからキャロムまで全部、一日中撞いてみたい」
――アツいですね、北谷プロの話となると。
「絶対に海外で通用すると思ってる選手だから。今はなかなか行ける環境ではないと思うけど、ヨシくんにはいつかまた海外にチャレンジしてほしいと思います。自分と同い年というのもあるし、自分がこんな身体で海外までは行けそうもないので」
――球の技術やスタイルのことを深く話す人っていますか?
「誰だろうな……。ほとんどいないですね。そもそも同調する人があまりいないし」
――西嶋プロはアマ時代からすでに「人とちょっと違う」スタイルでしたよね。どうやって培われてきたんでしょう。
「やっぱりキャロムを通ってきたのは大きいんじゃないですか?」
――確かに空クッションを多用したりするところはキャロムのバックボーンを感じます。
「自分としては無理矢理行ってると思われない、皆がイメージできる範囲内で空クッションに行ってるつもりですけど。でも、確かに多いとは思う」
――同じ場面で同じことを発想して実行する人は見たことがない?
「海外選手になっちゃうけど、鄭栄和とか韓国選手には似たものを感じます。やっぱりキャロムの国の人だからっていうところもあるんだろうけど、鄭栄和はそういう感覚と遊び心を持ってると思います」
――改めて今回の病気(急性大動脈解離と大動脈弁輪拡張症)のことについてうかがいます。体質的・遺伝的なものが関係しているんでしょうか。
「先天性らしいです。僕の家系は血管が弱いらしくて。でも、30代で急性大動脈解離になる人はほぼいないって医者からは言われました。ものすごく低い確率だとか」
――以前からある群発性頭痛も血管の弱さが関係してたのでしょうか。
「そうみたいです。でも、頭痛は今回の手術をきっかけに治まったかもしれない。前回は昨年の6~9月にあって、3~4年周期なので、まだなんとも言えないですけどね」
――昨年10月に倒れた時、『もうビリヤードはできない』と思ったと。
「気付いたら、管が7、8本入った状態で集中治療室にいて、人工呼吸器が付いてる。ああなっちゃうと、誰でもビリヤードなんてできる状態ではないですから」
――その後、回復していく中で、いつビリヤードを再開したんですか?
「2015年の年末です。11月初めに退院して、年末にはビール一杯ぐらいは飲める程度に回復したんで、忘年会に出たんですよ。その流れでみんなでペアマッチをやることになった。それが退院後初のビリヤードでした。左腕は伸ばせない状態だったんですけど(苦笑)」
――それから?
「新年の挨拶みたいな感じで『ハイランド』(横浜。閉店)に行った時にちょろっと撞いたのかな。そしたら案外球が入って、『意外とできるな』みたいな。でも、その数日後、常連さんと撞いたらボロボロになって負けて(笑)。それが悔しくて、そこから撞くようになったという感じです」
――3月末には逸野暢晃プロと対談をしました。
「ああ、あの頃はすでにしっかり撞けていて自信もありました。1~2月は一人で毎日5、6時間ぐらい練習してたから。めちゃくちゃビリヤードが楽しかった。人とは撞いてなかったけど」
――「しっかり撞けていた」。その熱意の源は?
「『試合をしてみたい』。突き詰めるとそれだけ。それで『グランプリ第2戦』(4月)にエントリーしたんです。試合でも撞ける自信はあったけど、身体がどのぐらいもつかはわからなかった。もし少しでも身体に異変が出たら、どんなに勝ってても棄権しようと、それだけは決めて出ました」
――その復帰戦で優勝し、ジャパンオープンの特設会場にも行った。
「この夏は新しい目標を探す期間だったというか(笑)。『全日本選手権』(11月)に6年ぶりに出るので、そこに向けてまた気持ちを上げていきたいです」
――今、身体はどんな状態なんですか?
「いまいち良くないです。病気の後遺症で腰と背中がずっと痛いのと、呼吸が苦しくなる時もある。左腕も相変わらず上手く曲げ伸ばしできない。それでも、一日1、2時間は撞くようにしてます。1~2月に比べると練習量は減ってますけど、楽しいのは楽しいですよ。ここ(MECCA Yokohama)で良い環境で練習させてもらってます」
――今後のことを考えたりはしますか?
「なるようにしかならないだろうけど……。なんか今この状態がすごく不思議というか。本当は去年(2015年)いっぱいでビリヤードは辞めるはずだったんですよ」
――えっ。
「なあなあになって、ただ撞いてるだけになっちゃってるなということは何年も前から感じてて。それで、すごく親しい人には『今年(2015年)、30代最後の年だし、これで区切りを付けてビリヤードから離れて、実家を手伝おうと思ってる』と話をしてたんです。そしたらこんなことになっちゃって。身体が治ったら結局ビリヤードやってるんだから、不思議ですよね(笑)」
――不思議だけど、生の実感があるのでは?
「あります。なんのためかまだわかってないんだけど、めったにならないような病気から復活できたんだから、なにかしらこの命に意味があるんだろうなって思います。周囲はみんな、身体のことを気遣ってくれて『無理すんなよ』とか言ってくれるんだけど、今無理しないでいつするんだろうという思いがあります。色々と考えていることはあるけど、当面は全日本選手権ですかね。そこに向けて準備をしていきます。
最後に、入院中お見舞いに来てくださった方、心配して連絡くださった方、そして試合に応援に来てくださる方に、この場をお借りして感謝の気持ちを伝えたいです。ありがとうございました。またここから頑張りますので応援よろしくお願いします」
(了)